昭和四十五年七月七日 夜の御理解
「人の難儀を助ける事が出来るのを有り難いと心得て信心せよ。」と。
人の助かる事が出来るという事を有り難いと心得て信心せよとおっしゃる。それは、いろんな意味で助けるという事は、又は助かるという事は言えます。おかげで助かりました。金が無い人に金を恵んでやった、助かったと言うてそれこそ手をあわせて拝むように有り難いと言うだろう。病気で苦しんでおる人に良い薬をあたえて楽になったといや、本当に命が助かりましたというて喜ぶだろう。けれども、それはその時は助かったのであり、それで人間が幸せになるという助かりではない、という事ですね。ですから、もちろんそういう事も助かるけれども今日は助かるという事の本質というか、本当の意味の助かりという事について今朝から頂いたんですよね。それにはまず、やはり私共自身がそういう意味に於いて助からなければならん。その助かりとはやはり、なら病気をしておってもお金が足りなくても、暑かっても寒かっても、その中に有り難いなあというものを感じれれる道があるという事なんだね。いわゆる、どんな中にでも幸せを感じれれる気持ちというものがある訳なんです。そういう助かりを本当の助かりといい、そういう導きを本当の助かる導きだという事になる訳なんですね。
今日、日田の綾部さんが今、一時の御祈念に親子三人、高島さん含めて四人連れで毎日参ってみえます。昨日、ある長女の方の…本人にとっては大変な深刻な問題ですが、その問題の事をお願いしてございました。昨日も「そんなにあんたが苦しんでおるよりもね、私達がこうやってお参りしよるけん、あんたも一緒にお参りせれ」と言うたけれど、まだどうもお参りする気がせんと。「私は今日はゆっくり魚でも釣りに行ってから、魚を釣りながらひとつ自分を本気で見極めてみよう、考えてみよう。だから今日は魚釣りにやらしてくれ」と言うて、お母さん【 】ここで涙を流してその事をお届けしてました。「もう本当に娘の苦しみは私には、よーく分かります」と言うてお届けしておられましたが、今日は又反対に涙を流してお礼を言うておられるのですよね。と言うのは、ここから御祈念を終わって帰らせて頂きましたら、もう娘は帰っておりました。そして、二人見るようにニコニコしておるそうです。「お母さん、今日私、おかげ頂いたよ」と言う。「どうしたの」と言ったところが「もう、魚釣り行ったけども考える暇もなかった」と。ちょうどこの位のハヤをね、九十八匹釣ってきた。魚釣りは好きなんですからいつも行くけど、十五匹かせいぜい二十匹だというんですね。しかし「もう先生、神様のお働きには恐れ入ってしまいます」と言って今日は、ありがた涙をこぼしております。そしてその九十八匹もの魚を釣りあげていくうちにです、帰ってくる時にはもう二人見るように変わっとってです、「もうお母さん、あの事はあきらめた」とこう言う。もうあの事は考えんというほどに心が助かっとる。だからそれで完全に助かったという訳じゃない、次から次に問題はありましょうけれども、そのようにしてその心が助かっていくという事は、自分の精進もさることながら、これをトリックならトリックとでも申しましょうかね、もう不思議なまでのお取次の働きというものは、そういう、いうなら魚が九十八匹もかかるといったような奇跡が起こっておる訳です。そこにね、助かりがある。もう深刻に考える暇もなかった。というようにです、私共がいかにも暑い又は寒い、どういう難儀の中にあっても有り難いなあと感じれる心が本当の助かりだ。とてもそんな事が出来るもんかというけれど、本気に真剣にお取次を頂いたらね、そのような働きの中に、又自分の精進さして、信心しようとあいまってです、心が助かっていくのを見るようにある。自分で感ずるのである。そういう助かりをね、私は今日、朝、助かりの本質というのをそういう意味で助かっていく事が本当の助かりだというような事を朝の御理解から引き続いてのね、今日は御理解ですね。どうぞ。